ハーモ美術館のコレクションは、当財団と(株)ハーモ、(株)日本ピスコを
代表とする企業グループにより文化事業の一環として収集されたものです。
約400点の所蔵作品は、素朴派の絵画や、ルオーの銅版画シリーズなど、世
界的にも貴重な作品が多く、個性に富んだ特徴ある名画をご鑑賞いただけます。




アンリ・ルソー(1844〜1910)

ブリキ職人の息子としてフランスのラヴァル市に生まれる。18歳で軍隊に志願し、2度の従軍を経てからパリ市の入市税関二級官吏員となる。通称「ドワニエ・ルソー(税関吏ルソー)」と呼ばれるのはこのことに由来する。

日曜画家として余暇には絵を描き、1886年よりアンデパンダン展に出品。1893年に市税関を退職した後は、乏しい年金をもとに本格的な作画活動に入った。私生活では、子供達や最愛の妻を亡くすなど不幸にみまわれ、さらに1899年に再婚した二度目の妻も4年後には他界してしまう。

画家として認められていないにもかかわらず、創作活動は意欲的にすすめられ、1894年、大作の《戦争》を発表。1904年には幻想的な異国趣味の最初の作品《虎に襲われる斥候》が描かれ、翌年にサロン・ドートンヌに出品。作品は世人の酷評に包まれたが、ルソーは批評の内容など一切意に介さず、むしろ酷評の方が賛辞に近いことを感じ取っていたという。そんなルソーの才能を最初に発見したのは、ピカソやドローネーらの画家と、アポリネールやウーデらの著述家たちであった。

ルソーの制作時期は、1910年に没するまで25年に渡っているが、現存する作品数はきわめて少ない。生前ルソーの類いまれなる才能は人々に理解されず、貴重な作品の多くが損なわれてしまった。しかし現在、ルソーの評価は高まるばかりであり、かつて「子供が描いた絵」と評されたルソーの作品は、世界各地の名だたる美術館で丁重な扱いをもって展示されている。






H.Rousseau "Bouquet de Fleurs" 1910
花(1910年)

アンリ・ルソー最晩年の作品。花をモチーフにした静物画は晩年に多く描かれたが、日本国内で鑑賞できるのはこの一点のみである。
一斉にこちらを向いたかのようなマーガレットとミモザの花は、ルソーが固執したとされる、いわゆる「正面性」をよく表すものだが、このことにより、花の持つ生命力や存在感が、観る者に迫るように感じられる。

果樹園 (1886年)

ルソー初期の秀作。ルソーはパリの風景をよく描いたが、本作はそれら風景画の中でも、重なり合う画面構成や巧みなコントラストによって特に素晴らしい風景画とされている。
ルソーの熱烈な賛美者であったピカソは、ルソーの作品をいつも身近に置いていたというが、この作品にはピカソによる直筆の裏書がつけられていた。
H.Rousseau "Le Verger" 1886
ラ・カルマニョール(1893年)

本作は、1893年に行われたバニョレ市役所の装飾壁画コンクールに応募するために描かれた作品。カルマニョールとは、フランス革命期の輪舞のことで、本作が制作された1893年はフランス革命から100年を数える記念の年であった。
コンクールでは残念ながら落選となったが、ルソー独自の均整と調和が堪能できる作品である。
H.Rousseau "La Carmagnole" 1893
以上3点のほか、《釣り人のいる風景》《"モンスーリ公園の眺め"のための下絵》《マルヌ河畔》《郊外》《散策者たち》等を合わせ、全9点のルソー作品を
所蔵しています。

カミーユ・ボンボワ(1883〜1970)

フランスのブルゴーニュ地方ヴィナーレ・レ・ロームに生まれる。父親が船頭だったため少年時代を運河の曳船の上で過ごしたが、この少年時代の記憶が後に画家となった彼に題材を与え続け、後に水面に映る風景や豊かな流れを多く描くようになる。
12歳で農場に働きに出され、その後サーカスのレスラー、道路工事夫、印刷工などとして働き生計をたてていたが、やはり絵を描くことが最大の喜びであった。絵を描く時間を確保するために夜勤仕事を7年間も続け、睡眠を惜しんで作品を書き重ねた、彼の描くことへの執着は、彼を「生まれながらの画家」と呼ぶにふさわしい。
1922年、39歳の時、モンマルトルの街頭油絵市に並べていた作品が、ノエル・ビュローの目に留まり、雑誌に初めての評論が掲載される。
ボンボワの作品は、風景画であってもそこかしこにユーモラスな人物が描かれ、美しい水と緑の輝きの中に、人々の営みが活き活きと描かれている。




・シャティヨン・シュル・セーヌ(1959年)
・ピクニック(1930年)
・池の中の帽子(1935年)
・自画像(1948年) ほか

アンドレ・ボーシャン (1873〜1958)
フランスのアンドレ・エ・ロワール県シャトールノー生まれ。庭師の息子として生まれたボーシャンは、1887年から小学校に通う傍ら庭師の修業をしていた。第一次世界大戦に従軍し、ダーダネルス海峡地方を訪れた際、土地の測量技師を務めていた彼は、司令部付きの製図家として採用される。製図の見事さに感心した上官のすすめでデッサンを始め、1917年、44歳にして初めて油絵を手がけた。
戦後まもなく苗種栽培業をやめて画家に転向、1921年にはサロン・ドートンヌに出品。ル・コルビュジェとオザンファンに認められ、1928年ディアギレフのバレエ『ミューズを導くアポロン』の舞台装置と衣装を担当して大好評を博した。こうしてボーシャンの芸術家としての生活が始まった。
1952年、ロワール地方のモントワールを永住の地と定め、数多くの素晴らしい作品を残し、栄光に包まれた生涯を送った。



・花と木(1941年)
・楽園に咲く野の花(1940年)
・フルーツのある風景(1948年)
・楽園(1954年)
・ニンフ達の洞窟(1946年) ほか

ルイ・ヴィヴァン(1861〜1936)

フランスのヴォージュ生まれ。ルソーやボンボワと並ぶ素朴派の代表画家のひとり。小学校卒業後、工業専門学校に入学し、工業デザインのスケッチや絵画制作のスタートを切った。
1878年、郵便局に就職、巡回郵便集配人として働いたが、この間も趣味で絵を描き続けていた。彼の創作活動が熱心に開始されたのは、1922年61歳で郵便局を退職し年金生活に入ってからである。その後、批評家ヴィルヘルム・ウーデの援助で1925年に展覧会を開き大成功を収めた。画家としての道もひらけ、ようやく好きな絵画に専念できたが、1934年に脳卒中を患い、2年後に他界した。
ヴィヴァンは、自分が愛したパリの町並みやセーヌ河畔を、黒い輪郭で規則正しく描く。明るい色彩と規則的な人物配置によって、観る者はヴィヴァンの心の中にある世界を訪れることができる。



・ボート遊びをする人たち(1930年)
・ラングル駅の風景
・教会     ほか

グランマ・モーゼス(1860〜1961)

ニューヨーク州グリニッジに生まれる。本名アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼス。12歳から農場で働き、1887年同じく農場で働いていたトーマス・サーモンと結婚。2人は農業にいそしんで5人の子供を育てる。
1927年、夫トーマスが他界し、子供達も成長して余暇ができた67歳のモーゼスは、趣味で刺繍絵をつくり始める。慢性のリューマチが悪化し、手が不自由になったことから、刺繍針を絵筆に持ち変えて、75歳より本格的に絵を描き始める。人気画家・モーゼスの誕生の瞬間であったが、当初彼女は自分の描いた絵を自家製のジャムなどといっしょに田舎に立つ市に並べて出していた。1936年、アマチュアコレクター、コルダーが彼女の才能を見抜き、全作品を買い取る。1940年には80歳にして初めての個展が開かれ、1941年にはニューヨーク州賞を受賞、各地で展覧会が開かれる。
1960年、100歳を迎えたモーゼスを祝福し、ニューヨーク市は彼女の誕生日を「グランマ・モーゼスの日」と定める。101歳で長い生涯を閉じるその直前まで、モーゼスは絵を描き続けた。

75歳から画家の人生をスタートしたモーゼスの生涯は、「さあ、何かを始めてごらん、誰にだって、いくつになったって、どこにいたってチャンスはあるのだから」と語りかけている。



・丘から家路につく羊飼い(1940年)
・昔(1942年)
・道に架かる古い小屋根(1948年)
・秋(1950年)
・丘を越えて(1950年)
・農作業(1957年)
・春の花々(1961年)  以上7作品
その他の作家作品

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